アーティスト・トーク

伊藤慶二 アーティスト・トーク :  伊藤慶二×渡部誠一(美濃焼ミュージアム)

2014年9月27日
(渡部) 今回の伊藤慶二さんの展覧会いろんな新基軸もありますし、大変面白い展覧会だなあと思って観ておりました。
「かたち‐文様」「小さな造形」「うつわ」と3つの会場に分かれているのですね。
かたち‐文様 小さな造形 うつわ
かたち‐文様 小さな造形 うつわ
それで、「かたち」というような言葉をお使いになるのは、2013〜2014年にかけて岐阜県現代陶芸美術館で行われた伊藤慶二さんの展覧会がありました。その時も、「ペインティング」・「クラフト」・「フォルム」という言葉を使われていまして、「フォルム」ということで「オブジェ」という言葉をあまりお使われにならないですよね。それは何故ですか?
(伊藤) いや・・・それは別に理由は無い。
(渡部) あぁ、そうですか。
焼き物をやる人は必ず、用途の無い造形を「オブジェ」と言いますし、八木一夫がオブジェ焼と言ったことから始まったんだろうと。
よく考えたら、伊藤先生のように絵画の世界からこの焼き物の世界へ入ってこられて、美術の観というものをやはり解ってみえるので「オブジェ」という言葉がしっくりこないというので、避けられるのも仕方ないのかなぁと思います。
オブジェの言葉となると、美術的には特別な意味も込めてしまいますので、そういう意味では、私も適切でないのかなぁと思います。それでいつも「オブジェ」という言葉を使われず、「かたち」とか「造形」という言葉で表現されているのかなぁと思います。
それで、今回も3つの「かたち」「小さな造形」「うつわ」という構成で展示されています。
まず「かたち」のところですが、前の現代陶芸美術館での展覧会ではいわば造形作品というのを並べて展示したのですが。
今回はびっくりしました。「うつわ」のかたちをしているんですが、決して使うことができない「うつわ」なんですね。
これは、注器のかたちをしていますが、蓋を開けようとしても開かないですし、穴が開いているわけでもない。という事で全然使うことの出来ない「うつわ」なんですね。
こういったものがずっと並んでいるんですね。先生これはどういった事ですか?
(伊藤) このフォルムってのは、皆さんが見慣れている「かたち」なんですが用【使い勝手】を外してしまったところには、別なモノが見えてくるんじゃないかなという気がして。余分なものを取り除いてしまった、純粋な「かたち」っていうのを見直したらどうか?という一つの提案でやった仕事です。
(渡部) 「かたち」っていうテーマがあって、うつわそのものの形を前面に出してしまわれたんですね
こちらの部屋は使える器で、驚いた事に最初の部屋が使うことの出来ない器なんですね。
先生がおっしゃられたように、器そのものがもっている「かたち」というかもっとクローズアップしたいと。
器というものを本来の美しさであるというか、面白いということをを純粋に引き出すという試みではないでしょうか?
使えない器っていうのは例えば、一つには走泥社が器の口を閉じてみたり、色んな事をやって器と格闘しながら離れようとするんですけど、そこで出てくる「かたち」っていうのが結構奇妙奇天烈なものが出てきたわけですけど。
そういったものとは違い、器の用を取り除き、器そのものの美しさを見せるという点で、新しい試みなんじゃないかなぁと思いますが。
その辺り如何ですか?
(伊藤) いわゆる器としての使い勝手、機能を考えさせるもの。しかし、その機能を取り除いてしまえばもっと新味で純粋な「かたち」をしているんじゃないかな?と。
それを美しく見せるという事でやった仕事です。
(渡部) うつわ本来がもっている美しさという事ですが、器は今若い方も含めいろいろな方がやってらっしゃる時代ですけれども、その用途に拘泥するあまり「うつわ」本来の美しさっていうのはどうなんだろう?って先生おっしゃっていますけれども。そういう見直したいというメッセージの込められた作品群だと思います。
今までも器そのものの「かたち」だけを見せて、使えない「かたち」っていうのを提示するという仕事はあったのですが、例えばロゼリン・デリールとかの作家の仕事などいくつか無くはないのですが、これだけ大量にすごいバリエーションで器のかたちをしながらその用途が全て無いというのは、仕事として新しい試みだなぁと思います。以前も作品群ではなく単発でこういう仕事をされてた事があるんですよね?
(伊藤) うん。それは試みとしての事であって。今回初めてこれだけまとめた「かたち」を発表した。
(渡部) そういう意味で最初に会場へ入って来てビックリさせられた作品群でありました。
その次の部屋は、見事に使える器が蚤の市のように並べられている感じですね。
どれも魅力的で先生らしい造形の器が並んでいる訳ですけれども、その辺のところは大変面白い感じがしました。
今回これだけ沢山並べられたという事は何かありますか?
(伊藤) うん。先程見ていただいたいわゆる用を取り除いた「かたち」と十分使用できる本来の器という「かたち」の対比っていうのかな。
それをここではよりよく見返せるのかなぁ。
だから、当たり前のゆのみなり珍味入れであってもちょっとどこか違ったところを見てもらえるんじゃないかなぁ。
(渡部) という事で、うつわのフォルムと日常使いの器の比較が十分堪能出来るような展示になっているんじゃないかと思います。
さて、次はこちら2階の部屋です。
「小さな造形」の世界ですよね。一昨年の現代陶芸美術館でも「小さな造形」の展示がされていました。
「1963〜2013年の間の楽しむ」いうタイトルがついていますから、その間にずっと作られた「小さな造形」が展示されました。
大変魅力的な作品で、ずっと私なんかも何度もここにしゃがみ込んで見入ってしまったという記憶がありますけど。
この「小さな造形」というのは先生の中でどういう位置を占めているのかなぁと。
(伊藤) (伊藤)まぁ・・・遊んでるというか。
(渡部) 遊んでる?愉しむとか。
(伊藤) そう。
(渡部) 愉しんで作っているのが良く出てる。
(伊藤) これは決して小さいからマケットっていうとそうでもない。これだけで独立した作品として見られるんじゃないかと思って。
(渡部) そう思います。先生がおっしゃられたマケット−大きな作品の為の習作とかエスキースみたいなものでもありませんし、模型ではありません。独立した作品です。というそれを十分に掌のなかで愉しんでいらっしゃるんだなぁという感じが伝わってきます。
今回ちょっと面白いなあと思うのが、展示台なんですね。これに注目していただきたいと思うのですが、この展示台は先生が発注して作られたんですけど、いつもこの展示用の台を作るのが大変巧みでいらっしゃって、この台も合わせて作品だとおっしゃりたい。そういう事ですね。
(伊藤) そうです。1階の作品のように白いボックスの上に作品を置くのではなくて、置かれた台と作品が一態として、見られる。というような意味合いを表現してみたかったのです。
(渡部) これがまたよく出来ていましてね。
上の白い天板と下の白い天板のサイズが違っている。だから、作品のサイズによっては上下台をひっくり返して使用している。
ちょっとご覧になって下さい。お解かりになるとおもいますが。まぁ上手いこと考えられているなぁと。そういった展示が非常に巧みでいらっしゃって。
で、この間の展示の時もこういった廃材を用いた展示なんかやられていましたよね。
(伊藤) これは童(わらべ)3点です。
(渡部) これも台ごと作品でありました。
こういった廃材をつかって、ホゾなんか切った廃材ですね。この中にもホゾなんか切った廃材があると思うんですが、そういうような形のを使っているのがなかなか心憎い展示をされるなぁといつも思います。
今回も全くそういう事で感心させられた展示であります。
今回こういった足。あしですね。先生のシリーズの中で祈りを込めたような作品として足のシリーズ。仏足跡のあたりからもきている足シリーズの作品があったり、いろんな展開を思わせるような作品がありますが今回はまたちょっと違う伊藤慶二の世界があるように思うのです。
つまり“伊藤慶二エロチカ”って言うんですかね。そんな気がしますがどうでしょうか。
(伊藤) うん、あの彫刻ではプリミティブアートに興味があってそこに表現されているのは、男と女。それが合体してるとか。そのかたちっていうのが非常に具象的であったり、抽象的であったり。ただ見方によっては微笑ましいものも多々ある。そんな所での見方がこういう風に作らせたんじゃないかなぁと。
(渡部) なるほど。
そういう意味では今回陰と陽の世界とか、男根と女陰をシンボライズしたようなものであるとか割と展開されているということもありまして。そういう意味で、プリミティブアートの話をされましたけども、生命力とか豊穣の願いというようなものを含めているんですね。
実は前からこういう世界は展開されていたんですよね。
(伊藤) それはやってました。
なんかそこにもののかたちをつくるベースがあるような気がするんです。
(渡部) 実はこの器はそこにあるんですけど、覗いてみると実はそうした陰と陽の世界が潜んでいるといった感じです。実はそういう世界も含めた作品が「小さな造形」という事なんですね。
他に今回こうした平面の作品も展開されていた訳ですが、昨日撮影したらみんなアクリルの上からだったので全部上手く撮れなくて。
なので、少しだけ紹介させていただきます。
こちらは焼き物に施す特に加飾を想定して書かれたものかなぁと思いましたが、そういう訳ではないんですね。
(伊藤) はい。先程のかたちと同じように、焼き物に焼き付けられた模様ではなくてそれを一度平面に置き換えた時違って見えるんじゃないかと。
むしろこれは絵に近いものじゃないかな。
だから、焼き物に付着した模様ではなくて紙の上に書かれていて、それが一つのアートとしての要素を持っている。そんなところの面白さっていうのをやってみた仕事です。
(渡部) ということで、これはまた焼き物とは別の展開で独立した作品群ということですね。
(伊藤) はい。そういう事です。
(渡部) さて、先程から少し話が出ております、昨年の現代陶芸美術館での伊藤慶二展についてちょっとだけ触れたいとおもうんですけど。
これ2013年の「珠」という作品ですね。
よくわかりにくいと思いますが、ご覧になった方はお解かりになると思うんですが、これは焼き物で出来た玉が数珠のようにずっと連なって、紐で繋がれているんですね。で、ここで地面からスッと浮いてまして。これは下が鏡になっていまして、下の鏡に映っている。
こちらは虚像です。
この鏡を覗き込むとずっと果てしない底が見えてくるようなものがありまして、そういうようないわば、空間に挑まれた。現代陶芸美術館が大きな役割を担わってきたという。
その辺いかがでしょうか。
(伊藤) うん。これは20メートル近い間仕切りした高さのある空間で、紐を垂らすというのは何でもない事なんですが、これを逆に下から鏡で映したら?って事でやった仕事なんですけど。
そうすると先ほど言われましたように、鏡に映る事により“地”に球が繋がっていくという。そういう見ることを摩耶かすっていうか。そういう事ができたんじゃないかなぁって思います。
(渡部) 今回画像を用意していませんが、この後、後半展示替えをされましたよね。
(伊藤) あのぶら下げるのを一つ換えてみました。
(渡部) 何かちょっと大きな陶の黒い塊を出すわけで、そのロープはところどころ結び目も作って。それであのタイトルは何でしたっけ?“尺”のシリーズになるんですかね。
(伊藤) あれは結び目は1メートル毎に作ったんですが。タイトル“尺度”です。
(渡部) そうですよね。
その時僕は先生の持っている造形のタームっていうのが普通の陶芸をやられている方とは違ったターム、造形言語をお持ちだなぁといつも思いました。
特に“尺”という言葉であるとか空間の感覚であるっていうのはいつもそのように思っていますが、これもやはり空間を測る尺度というか距離というのかあるいは関係であるというのが先生の作品の中に見てとれるのですが。
そういうような事っていかがですかね。
(伊藤) 全く関係の無いものを使って一つの空間を構成するっいう所謂インスタレーションっていうのかな。そういう仕事は結構長くやってて、空間をどう作品のうちに取り込めるかっていうのが僕の仕事のうちでは重要な要素になっているような気がします。
(渡部) 確かにそうですね。
いわゆる空間の要素っていうのはすごく大きいなぁと感じますし、そういう点では関係とか空間であるとか尺度はとても重要になってます。
実は、私は今美濃焼ミュージアムに、その前は岐阜県現代陶芸美術館に、その前は水戸芸術館という所にいまして、そこで直接の上司が“人間と特質”という伝説の展覧会をやった人で中原祐介さんなんですけど、それについて彼が私に語ってくれたことがありまして、あの“人間と物質”というタイトルは実はちょっと縮小したというのです。
本当はあれは“人間と特質の間”っていうのが最初のタイトルでちょっと長いので“人間と物質”にしっちゃったんだと。
非常に現代美術史の中では画期的な展覧会だったと今でも非常に評価されている展覧会なんですけど、そのタイトルが“人間と特質の間”という事だったと聞かされたことがあるんです。
つまり「関係」ということが大事なんだよと。
関係とその集合。色々なものがあるんですけど、ただ人と人との関係とか人とモノとの集合とか関係の束が空間を構成する。ただそういう関係の網の目のような非常に重要な概念がそこにあるんだということをその時いろいろ教えられたようなことがあるんですけど、そういう点ではまさしくそういった仕事が先生の中では重要な位置を占めているんじゃないかなぁという感じがしております。
で、あとやはり前回の伊藤慶二展ではペイントの世界というのが非常に取り上げられていて、で伊藤慶二さん自身も「僕は本来画家だ。」とおっしゃられていたと思うんですけど。
陶芸家というより画家だと。井上さんとの対談の中でおっしゃられていたと思うんですけど。
(伊藤) そうかな。
(渡部) 基本的には画家といういうような自分自身の位置っていうような。とても大事なものとしてずっとおもちなんではないかなぁと。先生いかがでしょうね。
(伊藤) うん。しばらく書かなかったんですけど、昨年の岐阜県現代陶芸美術館で発表するという事で描いた絵なんですけど。
左のはコンテで描いたデッサンで、右のは油彩です。
デッサンはレクイエム(鎮魂)というタイトルで、以前からはヒロシマっていうタイトルで作品を作ってきたんですけど、長崎にっていうとずいぶん長い時間作品をどうまとめていいかできなくって、現地を訪ねて見た姿。天使たちの首が飛んだ像なんかを見せられた時にキリスト教と原爆との関係をコンセプトに制?作することがつかめたんじゃないかな。
下の2点は「道」っていうタイトルで描いている作品で。これもまだ連作がアトリエの中にあと4、5点あります。
これも又これから制作していくテーマじゃないかと思います。
(渡部) 先日お伺いした時も描かれていて、作品がかかっていたんですよね。
こちらの方のレクイエムなんかの作品なんかはやっぱり一目みて、ベン・シャーンのオマージュって感じがして、いきなりベン・シャーンの雰囲気と思ってしまったんですけど。そんなところはいかがですか?
(伊藤) ベン・シャーンの絵画・ポスターが日本で発表されたのは二回目だと思うんですよね。
1970に東近美で観たときにちょっと何ていうか強い衝撃を受けたのが彼の絵でした。で、今度の長崎をどう表現するか、物語化っていうのかな?それにはベン・シャーンから受けた影響がもろに出てきたんじゃないかなと。
(渡部) そうですね。非常にその先生の世界っていうのはベン・シャーンとか色んな画家へのリスペクトと考えられるのがありますね。
ピカソだったりルオーだったりジャコメッティーだったりモジリアニだったりあるいはモンドリアンだったりいろんな広がりが伝わりますよね。
(伊藤) うん。あの。やっぱりヨーロッパの絵描きさんたちに憧れたのかな。
じゃあ日本の作家でどうだったかというと。
結構学生時代から森芳雄さんとか山口長男さんとか好きで数沢山見てる訳ですけど、影響受けるという事からするとその辺の刺激から受けだ度合いによって出てきてるんじゃないかな。
(渡部) はい。
ベン・シャーンもメッセージ性の強い作家ですけども、今回も広島からそうですが、長崎のシリーズもメッセージ性の強いコンセプトがしっかりとした作品が出てきています
これは焼き物では展開しているんですけど。今回ちょっと写真がありませんが。
これは先生の家の絵専用のアトリエですよね。
焼き物のアトリエはここの下なんですが。
ここは最近作られたんですか?
(伊藤) それは5.6年前になるかな。
屋根裏を改造して作った部屋なんですけど、
若い時夢見たアトリエがやっとここにきて出来たっていう感じの部屋です。
(渡部) で、ここで生活の一部を絵画三昧の時間にあてているというような感じですよね。
非常に楽しそうにしておられる姿を拝見したというか。
でほかに現代陶芸美術館では、こういった「かたち」の写真もありました。
これはそちらにおられる小寺さんの写真で勝手に借用しておりますがスミマセン。
これを見てもお解りのように僕はこういう立体造形物なんですけど、非常に正面性というのを感じるんですよね。画家としてのトレーニングとか素養というかそうのが根本的にあるのではないかと。正面性というかそういったフロンタリティーと言いますが。
だから仏像が立体であるというのは正面性をもっているという意味合いでフロンタリティーという言葉を使います。
「日本美術の特質」という本を矢代幸雄という方が書かれているその本の中にも使われている言葉なんですけど。
そういった意味でわりとフロンタリティーを感じるんですけど。ちょっと勝手な解釈でしょうか?
(伊藤) うん。僕は作品の発想としてはクロッキーから出発するんで、平面にラインでもっての「かたち」を決める一次元の表現ていうことで、よりそういった感じが出てるんじゃないかな?
(渡部) そう言えば、線というのも非常にキチッとしたかたちで、主張しているなぁと感じますね。
この中で一つだけご紹介します。
これがクレーの作品です。
右側がクレーの書いた自画像。これ耳が無いんですね。要するに、もう外界からの雑音をシャットして自分のコスモスだけでの自画像とも見えたりもします。非常に奇妙な自画像とも。
これを先生ご覧になって、左側の先生の作品が出来上がったという。
(伊藤) たまたまそのクレーの自画像のハガキが仕事場にずっと貼ってあるんですけど、それを写したっていうのかな。それがこの左の作品で、もじって土をクレイというのでタイトルは「パウル・クレー」でなくて「クレー」だけで。
(渡部) なるほど。土のクレーとかけているんですね。
(伊藤) タイトルは後でつけたんです。
まぁ出発はクレーの自画像なんですが。
(渡部) で、面白いのがこの形がですね、非常にこちらはデフォルメされているんですが、さらに伊藤先生流デフォルメが施されてるっていうところが非常に面白いですね。
で思うんですけど、先生平面の世界とかそういうところから、こういった立体造形物にいくと更に自由にデフォルメされていると思うんですけど。如何ですか?
(伊藤) あの。これデフォルメってのを別に意識しない訳でもないんだけど、クロッキーしている時勝手に出てくる。で、今ずっと「マスク」人面の仕事が続いているんですけど、その形をどう変えるかっていう。これほど適したものはないかな?だから「顔」っていうテーマとしては面白い。百面相と云うくらいその表現は無限である。
(渡部) そうですね。あの世界は実に面白いですものね。
小さな造形もさることながら、こういうような形の世界を自由に遊んでいらっしゃるというような感じで楽しく拝見させていただいているんですけども。
次が、少し現代美術の話をって事でちょっと用意させていただいたんですけども、お時間の方がきましたので、その辺はまた次の機会にという事で今回はこの辺りで。
質疑応答
(正村) 今回2階のエロチックな作品に正直びっくりして衝撃をうけたんですけど。下の作品は前回とか前々回で展示の中で種があったと思うのですが。かなり初期からこのかたちはあったのですがこういうかたちで全面的にはっきり出されるのははじめてと思うのですが。この辺り具体的にどんなものからきているんですか?
(伊藤) う〜ん。この形。
それは年の功で。若いときは何となく抵抗があって作れなかったのかな。
だから、その男と女っていうのは永遠に人類の法則として繋がっていく。それは、原始アートでは美しく表現されているんじゃないかなと思う。だからその辺のところを、今の自分なりの形として表現できれば面白いのではないか?
作品が小さいからより表現しやすく理解もされやすいんじゃないかな。大きく見せようとは思わないです。
(渡部) 前回正村さんがここでトークをされて過去のお仕事をずっと時系列でお話しされたので、それ以降という事で現代陶芸美術館でのお仕事と今回の仕事を中心にお話させていただきました。
それで、この後実は現代陶芸と現代美術の話をしようと思ったのですが、そこで考えた事をチラッと申しますと。
現代美術家の方が最近しばしば陶芸にアプローチしてきて仕事をするというようなことがあります。
彼らにとってはその土というものを選択する。陶芸というメディアを選択するはそれぞれ理由があるのですが、そこに一つのコンセプトつまり思想があって。彼らには必要なんですね。
だから陶芸家にとっては当たり前の事でコンセプトなど追及するまでもないのですが、彼らにとっては土を使うって何だろうと深く追求したようなコンセプトやメッセージが不可欠であったりするんですね。
そういうような意味では伊藤先生も非常にメッセージ性の強い表現の展開をされているということでは通じるものがあるのかなぁと思って、そういった話をもう少ししようと思っておりました。
では最後に先生何か。
(伊藤) 何もないですが。
今夜の話が皆さんの肥料になればという事で。
どうもありがとうございました。
15周年企画 伊藤慶二展  伊藤慶二×渡部誠一(美濃焼ミュージアム)
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