企画展紹介

「超普通」にまつわるエトセトラ

中田ナオトの作品を一言でいえば、「従来のやきもの」のイメージからは少々逸脱しているということだ。しかし、その「ズレ」とはあくまでもポジティブな意味であって、中田の作品の重要な動機づけとなっているものである。土(ねんど)/陶(やきもの)という素材の持つ性質を十分に理解しながら、そこに自己の行為や思考をいかに落とし込んでいくのか。それは、現代のやきもの表現において、多くの作家たちが共有している意識であろう。しかし、そんな中でも、中田の表現手法は、じつに柔軟で自由、かつ天真爛漫であり、今を生きる作者自身がひたむきに向き合う現代社会をユーモアたっぷりに映し出す、いわば「ストーリー性」を強く打ち出したものである。そのことは、ステートメントに込めた「やき『もの』、やき『こと』」という言葉にもよく表れている。これは、中田の多摩美術大学大学院時代の恩師である中村錦平が鮮烈に切り拓いてきたやきもの表現の新しい傾向を明らかに引き継ぐものだが、一方で、中田の感覚はもっとポップで、軽やかなものである。
作品を通して、見る者に「何か」を語りかける。中田にとって、その「何か」とは、現代社会に生きる日々の中で遭遇する「未来に向かってひらめきを伴う意外な出来事」であり、日常にありそうでない、奇妙な出来事にまつわる「エトセトラ」である。「いたって普通のこと、またそれを超えている普通」のことを中田は「超普通」と捉え、それらを象徴するモティーフを見つけ出すことがまず、制作の基本となる(註)。そして、土/陶をメインに用いて制作しながら、既製品や他のメディアとも組み合わせて、ハイブリッドな独自の表現を目指す中田の作品は、意図して、美術と工芸、仮想と実在、自己と他者などの間を横断する。時には、クスっと笑ってしまったり、懐かしく感じたりする仕掛けが込められていたりする、ユニークな作品の数々。中でも特に印象に残っているのは、2016年に滋賀県甲賀市信楽町にある滋賀県立陶芸の森での滞在制作で生まれた作品で、自作のピンホールカメラで撮影したネガフィルムをタイルの上に直に転写して焼き付けた《Shigaraki time》というシリーズである。デジタル全盛の現代において、ピンホールカメラが捉えるイメージとは、写真技術の黎明期に見られた不鮮明で素朴なタッチの画像であり、今、この瞬間を切り取ったものでありながら、遠い昔に過ぎ去った時間を封印したかのような、深い郷愁を呼び起こすものである。映し出されたのは、中田が信楽で出会った風景や人々で、用いられたタイルは外壁用に生産された既製品であった。日常に溢れる「普通のもの」でも、組み合わせ次第で、不思議なものへと変貌する。もっというと、そこにやきものが介在するからこその面白みが出てくる、ということも制作意図に含まれる。じつは、このシリーズの作品が、同年の第24回日本陶芸展の自由造形部門に入選したことが強く印象に残っている。会場でこの作品を見たときに、明らかに他の作品の傾向とは異なる、異質のオーラを放っていた。まさに、中田の作品が、陶芸というジャンルに置かれたときに起こりうる反応/反動を見たような気がした。と同時に、既製品のやきものをパーツとしたミクストメディアの作品が、やきものの新しい表現領域を押し広げる可能性を持つ、あるいは示唆するものとして捉えられたのだとしたら、それはある意味、画期的なことであった。
現代は、あらゆるものの境界が曖昧となり、ジャンルの横断や交差も珍しくない、まさにボーダーレスな時代である。既存のジャンルに拘泥するのではなく、どのような分野に置かれても、独自の存在感を示すことができるもの。芸術においても、あらゆるジャンルへと越境する「中間領域的な」作品が、これからの新しい価値観を創り出していくのではないか。少なくとも様々な文脈からの批評に耐え得る強さを持ったものにこそ、現代のリアリティが生まれるのではないだろうか。
もともと、陶芸や工芸に関しては門外漢であった私が、かえって親しみを覚えたのが、じつは中田の作品であった。このことが与えるヒントに、私は今も導かれているのではないかと思う。

マルテル坂本牧子(兵庫陶芸美術館学芸員)
(註)中田ナオト「複製をめぐるひらめきの置換」『多摩美術研究』第2号、
多摩美術大学大学院 美術研究科、2013年

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