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楽しさを求めて。
わかりやすそうで、わかりにくい。わからなさそうで、なんだかわかる。そんなアンバランスなバランス、アンビバレントなものに魅力を抱いてしまう。
以前僕は、未来に向かってひらめきを伴う意外な出来事を「超普通」と呼ぶことにした。(拙稿「複製をめぐるひらめきの置換」〔研究ノート〕『多摩美術研究』第2号、2013)日常のありきたりな風景が意識化されたとき、「超普通」はシンボライズされた形となって浮き上がる。その感覚が具現化されたものを「仮想現物」と呼んでみたい。これは、知覚を感覚の上位概念として、僕が切り取った日常を表出したものだ。決して記憶が再現されたものではなく、また記憶を想起させるものでもなく、感覚を刺激し新たな知覚へと導くことを誘発していくデバイスなのである。
僕はねんどを主な媒体として制作している。焼成により変化する、僕の変身願望を満たす素材だ。ねんどを指や手で撫で回しながら感じられるのは、素材に触れるようにと素材が誘発するようであり、素材から触れられているという感覚だ。火の光と熱によって変化を遂げる魅惑的な素材は、僕らの触覚を携え、僕の行為と思考を対等に混ぜ込みながら、「する」ことと「なる」ことによる程良いバランスによって存在するのだと思っている。
さて、果たしてわかりやすさに強弱はあるのだろうか。いや、決して強くなくても良いけれど、なんだか粘りのようなものが欲しい。さらっとしすぎない抵抗感や違和感、もしくは摩擦のようなものが、大切なものがするりと滑り落ちてしまわないように、しっかりと心のひだに引っかかりを持つことを忘れてはいけないのだと思う。
僕にとって芸術に遊び心は欠かせない。遊び心は、僕らの思考を柔軟にさせ、客観的な視点がなければ到達しえない高尚なゆとりにも似たものだ。そして本能的で無意識的なのだ。この感覚を僕はこの先もずっと忘れずに持ち得ていたい。
僕らは皆演者だ。そして、作品はフィクションだ。満ち溢れた実感と期待、行為と思考を「PLAY」と「PRAY」へ置換する。それらのどこかにリアリティを感じ、この「プレイランド」でそれぞれの物語が始まって行く。わかりやすそうで、わかりにくい。そんな楽しさを求めて。
中田ナオト
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